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 安田村は、明治二十二年(一八八九)より大野村に入ることになったので、大野の集落とは密接な関係だったわけだが、集落問の道路は古くからついていた。また、浪館への道は、青森市街へ最短で行ける道であった。 
 安田字稲森の十文字から、東の方(水田耕作地の方)に分かれて、幹線道路と平行にのびている道路がある。この道路は、大野集落につづく大野道に分かれたり、浪館通りへ続く主要な路線であった。 大野道は、浪館村の稲荷神社の手前で東へ折れ(田方道)現在の市立西中学校裏ー市立泉川小学校前ー大野市民センター前を通っていた道路である。道路は、道幅の狭い長道で、歩行者の道であった。この道路は、大野の集落から旭町を通り、新町や柳町の商店街に通じ、安田地区の人によく利用された。また、大野道は、安
田側から進むと、途中で万太郎堰につきあたって、堰洽いに左右へ道が分かれる。 右は大野へ、左は古川へである。古川への道は、泉川ー一本松ー変電所ー久須志神社ー古川と市街へ通じよく利用された。 
 冬の太野道は、通行人にはきびしいところであった。 昭和十五年ごろから昭和二十年ごろのこの道は、「馬の背をあるぐようだ」というほど、雪道が細く高く、足を滑らせると脇の雪やぶの中にぬかってしまった。その上、吹雪になると、西風が強かった。 安田に向かっている時は、前が見えないほどの吹雪にさらされ、浪館村の稲荷様の森に入ると、ホッカラとして、息をふきかえしたようであったという。(安田) 
 昭和のはじめに、現在の安田ー県立青森聾学校前ー泉川小学校前ー県立青森南高校前ー大野市民センター前と、安田から大野に通じる道幅が広くまっすぐな道路ができた。車道(荷馬車が通れる)で大野新道といった。
 この大野新道によって大野村の中心部と安田集落の距離が短縮し、馬車による物資の運搬も便利になった。それだけでなく、大野ー旭町通りー市街への通行を便利にした。(安田) 
 浪館への道(市街への道)は、稲荷神社前を北方向へ直進する道である。
昭和初期、浪館から古川へ行く道は、現在の「浪館通り」ではなく、浪館字浪館で二本に分かれる道路のうちの大野方面への道(右の方)を行き、万太郎堰(泉川)で北に折れー一本松ー東北電力変電所ー久須志神社ー古川(市街)への旧浪館通りであった。 これが安田ー浪館ー古川への車道で、市街への道であった。(安田) 
 大正七年頃から鉄輪の四輪車(荷馬車)が普及するようになって安田と青森市街との間は、この旧浪館通りの道路を通行していた。歩行者は、大野道を通ってきて、万太郎堰から古川への車道を通って市街に出た。(安田)
大野への道  
 細越の十文字から東側へのびる農道が旧大野道である。昭和四十七年の上地改良はほ場整備事業で水田の区画整理を行ったので、現在は、旧大野道は残されていない。それまで、通行していた人たちには懐かしがられている道路である。通称七曲がり街道といわれ、曲がり角の多い道だったそうである。
(詳しくは、若佐谷五郎兵衛著 『細越物語』第九号)馬車が通れる道幅があり、大野集落や旭町を通ってに青森市街に出る最短の道でもあった。冬のかた雪のころ(一月中句から二月中旬)は、細越から旭町通りまで、青森市街へ出る直線道路がついて、買い物や肥料運びに便利だったそうである。(細越)


 《1985年10月19日朝刊から》

 旭町通りを南下し、青森市内を通り抜けると道路の両側に続く商店がまばらになり、旧大野村との境に出る。ここで旧細越街道と県道荒川線とに分かれる。この三差路を取り囲む新興住宅街が南片岡町会だ。現在十六組三百六十世帯を数える町会は.来年発足二十周年を迎る。 町内は住所が大野片岡。十七世紀初めにに開田されたという大野村の「下村」と呼ぱれた所に当たる。地名は、土地が堤川方向になだらかな傾斜地だったことから「片岡」と呼ばれたともいわれ、昭和五十年ごろまでは、北は柳町通り山手から、西は旭町通り、東は観光通りハ甲田大橋付近までの広範囲な地域がすべて含まれていた。

 大野旧村は一面の水田地帯を曲がりくねって通っていた旧細越街道が整備され、旭町通りとなった昭和二十五年ごろから家が建つようになり三十九年には片岡町会として大野町会から分離独立、さらに四十二年に南片岡町会が分離した。独立当初は八十五世帯で、大野旧村時分からの農家二十世帯の世帯主たちが集まり役員会を結成した。その後、旧村を起点にしていた県道荒川線がバイパス化され旭町通りと直結された四十七、八年ごろからは町内の住宅地と田畑の面積は逆転し、分家した世帯と合わせ約三十世帯の農家は半分が兼業農家となった。

 五十年ごろ、町内の地価は坪(三・三平方メートル)平均五万円ほどと安かったことから持ち家が多く、町内世帯主の平均年齢も四十代と若い。核家族世代が好んで移り住んだものとみられる。若い町内の世話役は、町会発 足時からの役員で二代目町会長の高坂武光さ(72歳)。「発足当時は役員といっても運営のイロハが分からず、親睦を深めるため町内をくまなく何度も歩き回った」と笑う。水田を宅地化した町内だけに側溝の整備が立ち後れ、高坂さんらは市への陳情に明け暮れた。努力は少しずつ実り、現在では側溝が完備し、道路の舗装も九十九%。また、街灯も百三十灯と夜道も市内の中心街同様明るくなった。町会活勤は若い世帯が多いため活発。
 子ども会は小学生が約百三十人と会員が多く、
市の野球大会、ドッジボール大会の常連だ。又、婦人会も盛んで、会員約百五十人。婦人会主催の東京ディズニーランド見学を行い、町会主催の盆踊り大会や側溝清掃などを支援するなど「ママさんパワー」が明るい雰囲気の街づくりに大きく貢献している。

 中央大橋の建設が急ビッチで進み、町会はさらに発展する事が予想される。このため、朝夕、冬季には道路の渋滞に悩む町会では、大野町会や片岡町会と連携し、大野川を整備し、旧細越街道の道路拡張を市に働き掛けている。

                          ※ 新聞記事は二次利用承諾済み、記事中フォントは当HPが変更。